中世、本寺は桔梗ヶ原の中央、池の坊という地にありましたが、天文年間に武田氏の兵火にかかり、全て焼失してしまいました。慶長17年(1612年)憲快法印により現在の場所に移り、桔梗山郷福寺として中興されました。
その後、延宝4年(1676年)中興第3世快秀法印の時、京都大本山智積院(真言宗智山派)第7世運敞僧正により伝法、以後直末となりました。文政4年(1821年)には、郷原宿の大火の際に類焼し、堂塔や記録を全て失ってしましました。しかし、文政6年庫裡、嘉永7年(1854年)本堂に続き、薬師堂、総門と復興をみました。近年では、成田山分尊奉安の不動堂、薬師堂が再建され、筑摩三十三ヶ所観音霊場第二十六番札所も復活し、参詣者が多くなっております。現在は、高野山真言宗総本山金剛峯寺末となり、節分会、大般若会、お薬師様大祭と文化展等を年中行事としております。