「世界の平和のために祈ること。」
私はそれが、僧侶がすべきことの中で最も大切なことであると考えています。
そう思ったのには、一つのきっかけがあります。
それは、比叡山で行われた「比叡山宗教サミット」に参加したときのことでした。
参加と言っても、高野山の偉い方の運転手兼お供で行っただけなのですが、
「自分のお世話はいいから、勉強できる機会なのであちこち話を聞きにいってきなさい」
とおっしゃってくださいました。
そこで、分科会や講演を聞かせていただきました。
ボスニア・ヘルツェゴビナで「コミュニティガーデン」という活動をされている方がスピーチをされていました。
ボスニア紛争の傷跡を癒やすために、地域で一つの庭を育てるという活動がそのコミュニティガーデンなのだそうです。
ボスニア・ヘルツェゴビナでは、共産主義の元に民族主義や宗教が否定され、様々な民族が一緒に暮らしていました。
冷戦が終結し民主化が進むと民族主義が台頭し、それまで一緒に暮らしていた隣人同士が殺し合うようになりました。
それを先導し、多民族や他宗教の排斥を唱えたのが「宗教指導者」である、と。
この話を聞いて、
私は深く考えさせられました。
それまでは戦争や平和について考えることは全くありませんでした。
しかし、世界では「宗教」や「宗教指導者」によって殺し合いや紛争が起こっているという事実があります。
世界の平和のために、私ができることはなんだろうか。
当時の私は新発意もいいところです。
考えてはみたものの「できることは何もないんじゃないか」が答えでした。
でも、そうじゃないと思った出来事があります。
私は高野山で「高野山異文化交流ネットワーク」というNPOの立ち上げに参加し、高野山を訪れる外国人の案内をするボランティアを行っていました。
そのNPOで、日本文化を研究している外国人に高野山をご覧いただき、そこで思ったことを発表してもらうというシンポジウムを開催したことがありました。参加された方がこのようなことをおっしゃっていました。
「日本は不思議な国ですね。なぜならば宗教がケンカをしない。それは、世界が平和になるためのヒントかもしれませんね。」
高野山はインドから中国を経て入ってきた仏教の寺院でありますが、その中に日本古来の神道の神社があります。
クリスチャンの方も納骨に来られ、供養のお経を上げることもあります。
日本の宗教や、日本人の宗教観。
初詣は神社、結婚式は教会、お葬式はお寺。
節操がないと言われることもあります。
反対に、日本の歴史の中にも宗教による戦争や殺し合いがあります。
この中にあって、世界の平和のために伝えるべきことがある。
今を生きる日本の宗教者だからこそ、
できること、伝えるべきこと、発信できることがあると気が付きました。
世界のあらゆる宗教、民族、国家は共存することができる。
だからこそ、平和のために祈ること。
そして宗教による平和を説くこと。
あのときの自分、
そして今もなお、私はなんの力もない一人の僧侶です。
宗教による戦争が存在する以上、
その私でさえ、他宗教・多民族の排斥を声高に叫べばこれからも平和が実現することはないでしょう。
反対に平和を唱えたからと言って、
世界の争いが無くなることはないかもしれません。
しかし、争いを説くのではなく、
平和を説き、全ての命の幸せと心の安寧を祈ることが宗教者の使命です。
宗教者が平和を希求することを止めてしまっては、
平和を説くことを止めてしまってはならないと私は考えます。
そこで今、私は「祈り」を発信します。
小さな、小さな祈りですが、「世界の平和」を祈ります。
宗教や立場、違いを超え、
ご覧になった皆さまが一つの願いのため、
共に祈っていただくことを望みます。
それが大河の一滴となり、
平和への大きな潮流になることを願います。
合掌
郷福寺 住職
白馬 秀孝